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D3ブログ - 銀座一丁目ブログカテゴリのエントリ

▼朝なかなかフトンからでれない。
「辛いことを避けようとする態度」これは遺伝子を阻害する行動のひとつである。
そう思って起きる。今朝は7時半であった。
16歳の少女バンクーバーで開かれたフィギュアスケート女子・グランプリファイナルで初出場で初優勝する。
大試合で優勝するのは実力のほか「度胸」がいる。彼女はそれを持っていると前から感じていた。これは日本人選手に一番欠けているものであった。ともかく大試合で上がらないのだ。緊張しないのである。実力がありながら試合に出ると負ける選手が少なくない。
彼女には遺伝子を阻害する要因のⅠ、徒に安定を求める気持、2、勇気の欠如、3、成長の意欲の欠如などが全くがない。
現状に満足せず常に高い目標を掲げ勇気をもって貪欲に成長を求めている。
当分は彼女が女子フィギュアスケート界に君臨するであろう。
▼9日午後「埼玉偕行会」(会長柳沢寿昭さん)の忘年会に出席した(浦和市民会館)。埼玉偕行会は埼玉在住の陸軍の将校たちと自衛隊のOBの会である。出席者は30人.陸士期59期1人、60期6人、61期1人のほかは自衛官OBであった。この日を選んだのは昭和18年12月9日、埼玉県朝霞にあった陸軍予科士官学校に昭和天皇が行幸、「振武台」と命名されたからである。当時、在校生は陸士58期と59期5000名であった。朝霞の駐屯地には今でも振武台の記念碑が保管されている。
初めに元陸上自衛隊研究本部長の中川義章さんの「原子力と軍事」の講演を聞く。昭和53年東大工学部(旧原子力工学科)卒。この年東大から自衛隊に入った東大卒業生は4名いたいという。「原子の世界」から「核兵器の概要」まで数字を交えて要領よく話をされた。日本では核兵器を簡単に作れないらしい。作るには7年ほどかかるという話あった。会食に移り、会員がそれぞれ近況を語った。これが面白かった。「ボランテアをやり家庭菜園をやっている。いまベートーヴェン第9の合唱の練習をやっている。グルフを楽しんでいる。マラソンをやっている。富山マラソンに行った。こんど熊本城マラソンに参加する。タイムは5時間半ぐらい・・・」
隣の席の柳沢会長の話では和光市には2等兵から努力して将校となり退官後市会議員となって活躍している女性自衛官もいるという。
ともかく元気がでる集いであった。
▼9日午後「埼玉偕行会」(会長柳沢寿昭さん)の忘年会に出席した(浦和市民会館)。埼玉偕行会は埼玉在住の陸軍の将校たちと自衛隊のOBの会である。出席者は30人.陸士期59期1人、60期6人、61期1人のほかは自衛官OBであった。この日を選んだのは昭和18年12月9日、埼玉県朝霞にあった陸軍予科士官学校に昭和天皇が行幸、「振武台」と命名されたからである。当時、在校生は陸士58期と59期5000名であった。朝霞の駐屯地には今でも振武台の記念碑が保管されている。
初めに元陸上自衛隊研究本部長の中川義章さんの「原子力と軍事」の講演を聞く。昭和53年東大工学部(旧原子力工学科)卒。この年東大から自衛隊に入った東大卒業生は4名いたいという。「原子の世界」から「核兵器の概要」まで数字を交えて要領よく話をされた。日本では核兵器を簡単に作れないらしい。作るには7年ほどかかるという話あった。会食に移り、会員がそれぞれ近況を語った。これが面白かった。「ボランテアをやり家庭菜園をやっている。いまベートーヴェン第9の合唱の練習をやっている。ゴルフを楽しんでいる。マラソンをやっている。富山マラソンに行った。こんど熊本城マラソンに参加する。タイムは5時間半ぐらい・・・」
隣の席の柳沢会長の話では和光市には2等兵から努力して下士官・将校となった女性自衛官もいるという。ともかく元気が出る会であった。
▼毎日新聞に載った加藤楸邨の「カフカ去れ一茶は来れおでん酒」が気になってしょうがない(「季語刻々」12月4日))。「俳諧歳時記」(冬・新年・新潮社編)にも「おでん」の季語の中に加藤楸邨のこの句が挙げられている。「大根、ちくわはんぺん、焼き豆腐、こんにゃくなどを鍋に煮込んだものをからしをつけて食べる。冬の温かな食べ物としてまた酒の肴としても懐かしいものである」と記述されている。昨今私も良くおでんをいただく。私は季語よりも「カフカ去れ」が気になるのだ。楸邨が「カフカ去れ」と言い切る以上カフカを読んでいないとそうは言えないだろう。社会部記者は何事を聞かれてもすぐ反応できるように「広く浅くものを知れ」と教わった。フランツ・カフカ(1883年7月3日 - 1924年6月30日)については、手元に藤戸正二著「カフカ」-その謎とディレンマ―白水社・1973年5月21日刊)がある。どうやら論説委員時代に目を通したようである。僅かに一か所だけ線がひかれている。「この世ではすべての人に二つの信念問題が提出される。一つは、この生が信じるに足るのかという問題、もう一つは、生の目標が信じるに足るかという問題だ」。この本も読まずに積んでおいた本である。本棚を見ても”積んでおいた本”が少なからずある。100歳まであと7年。まだ時間がある。精一杯読書に励もう。『俳句は一本の鞭である』(白虹)とはよく言ったものである。
『一茶よりカフカが来たる師走かな』悠々
▼同期生で医者の北俊男君がなくなった(6日朝)。世田谷59会の世話人を務め春秋の世田谷会を開くのに努力をした。私は彼の3度にわたる説得で平成23年度の陸士59会の代表幹事になった。お蔭で多くの友人と知己を得た。その年開かれた全国大会のプログラムに描かれた表紙の靖国神社の絵は私は彼に注文したものである。またこんなこともあった。11年前の10月31日、九段の事務所で午後2時過ぎ、息苦しくなり、とたんに体がぐらぐらしだした。するとめまいがしてきた。意識はしっかりしているがしばし口がきけない。「このまま逝くのかな」と一瞬思った。そばで仕事をしている同期生の上田広君の娘さんの敦子さんに「ちょっとおかしい。水をくれ」と頼んだ。彼女は水を持ってくれたあと北俊男君に電話して指示を仰いだ。「意識があるのだから、近くの設備のある病院に連れてゆきなさい。そこなら慶応病院か東京女子医大病院だ」と北君は教えてくれた。そこで敦子さんに付き添われてタクシーで東京女子医大病院へ行った。神経内科で診断を受けた。胸部のレントゲン検査、頭のCT検査、心電図、血液検査を30分の間に済ませて、すべての結果が出たところで担当医の宇羽野恵先生の診断を受けた。どこも異常はなかった。北君には大変お世話になった。心からご冥府をお祈りする。
▼靖国神社の参拝する(12月4日)。参拝客多し。
昭憲皇太后御歌
「うつばりのちりもはらひて玉すだれかけあらたむる年の暮れかな」
遺書  陸軍大尉瀬川正俊命
昭和19年12月7日フィリピン、オルモック湾にて戦死
大阪府大阪市福島区大野町出身21歳
昭和19年12月10日15時の大本営発表によれば、12月5日スリガオ海峡、同7日オルモック及レイテ灣内の敵艦船に夫々體當りを敢行せる特別攻撃隊石腸、護國及勤皇飛行隊員次の如しとあって護国飛行隊の中に瀬川正俊大尉(戦死后2階級特進)の名前がある。
 護國飛行隊―隊長 陸軍中尉 遠藤 榮 
     陸軍少尉 西村正英 同 宮田惇作
     同    牧野顯吉 同 三上正久
     同    瀬川正俊 陸軍伍長 黒石川茂
 
    
▼俳句は5・7・5で森羅万象を、この天地を切り取る。
「カフカ去れ一茶来れおでん酒」加藤秋邨(毎日新聞「季語刻々」12月4日)
いいね・・・
「枯芝に松緑なり丸の内」子規(明治28年12月の正岡子規の作)
うむ・・・
「なき友がゴルフに誘う冬日和」悠々
2日続けて亡くなった友人とゴルフをした夢をみた。よほど私が暇に見えたのであろう。昨今が外出の機会が少なくなった。「外へ出ろ」というメッセージと受け取る。
「町師走天に向ひて足場組む」真館昌代
いいね・・来る新しい年に向けて準備せよと云うのか、俳句は奥が深い。
▼共働きの女性には幼稚園に通う子供の昼弁当作りが苦手のようである。園長に「お昼の弁当は親の愛情のしるし」と言われて困惑していると聞く。「30分早く起きて作ってやれ」と大正生まれの男は言いたい。作ってやれば自ずと親の愛情が分かるであろう。親の愛はすべてその所作に現れる。手を抜けばすぐに子供にはわかる。子供は親の行動をよく見ている。
理屈ではない。
大人の話だが私にはこんな経験がある。ある男が昼の時、弁当を開いて思わずにっこりした。そこには食材を使って「バカ」と書いてあった。その朝、些細なことで夫婦喧嘩をした。気まずい思いをしてそのまま会社に出てきた。
夫婦が仲直りしたのは言うまでもない。
弁当は“愛情通信”なのである。
共働きの女性に弁当作りを強制つもりはない。
因果応報。
苦労は必ず良い実りをもたらしてくれる。くれなくても自分の心が満たされればそれでよいではないか。
▼清水英夫著『心なき記事』(山手書房・‘昭和55年1月1日第1刷刊)こんなことが書かれてある(要約する)。
「大正9年(1920年)に発行された『日本及び日本人』という雑誌に”百年後日本”という特集がある。当時活躍した3百数十人の知名人に、百年後の日本についての予想を、求めたものである。今日でいう学識経験者ないし文化人であるが国会議員や軍人も入っている。面白いのは概して教育者などの予想には全く見当違いが多いに反して新聞記者などがきわめて的確な判断を下していることである」として大阪毎日新聞の相島勘次郎と読売新聞の柴田勝衛の予想を紹介している。清水さん本が出たのが昭和55年。大正9年からではまだ60年しかたっていない。100年まであと40年あるがそれを考慮しての著者の判断であろう。大正9年から100年は2020年である。すでに2年を切った。
相島勘次郎は(1868年=明治元年から1934年=昭和9年)茨城県生まれ、慶応大学を出て明治23年大阪毎日新聞入社、編集主任、副主幹を務める。当時52歳、俳句をたしなみ虚吼と号した。国会議員にもなった。当時52歳。
柴田勝衛は(1888年=明治21年から1971年=昭和47年)、宮城県の生まれ、青山学院高等科を出て読売新聞社に入社,社会部長、整理部長、編集局長など歴任する。当時32歳。
相島勘次郎の予想―島国という天然は、非常に日本に幸いして、英国と共に世界の最冨強国となれり。しかも内政改善に対する努力のたらざる為か、世界の最幸福国民とはなりえざりし。時(百年後)の歴史家曰く「徳川幕府の倒るるまでに280年を費やしたり。官僚政治の民治化するには、なお百年を要すべしとー
2018年10月現在GDPの1位はアメリカ、3位、日本、5位、イギリスである。幸福度は1位、フイランド、54位、日本、19位、イギリスである。官僚政治は骨のある官僚が少なくなり「忖度」ばかりして公文書改ざんまで行われる始末である。
柴田勝衛の予想―一般投票も実現されるでしょうし,また女代議士なども現れないとはかぎりませんが、こうした表面的の変わり方は別として、千年近くも古くから、伝統的にけれんとごまかしとで世の中を渡ってきた今の政治家ならびにその後継者は、たとへ今後百年ぐらいの歳月を仮したところで、はたして、わたしどもの希望通り、真に民衆のために「にんげんとしてはだか」になってくれる人があるかどうか。・・・日本の政治が「政策」と「うそつき」とを区別する時期は、いつのことやらわからなくなります。・・・」
「普通選挙法」が出来たのは大正14年3月29日、納税要件が撤廃されて満25歳以上の男子に選挙権があたえられた。この法律の元での選挙は昭和3年2月20日実施された。有権者は1240万人。大正9年5月の選挙に比べると4倍に増えた。女性代議が誕生したのは昭和21年4月10日の総選挙で31人が当選した。“けれん”と“ごまかし”は今も続き「政策」と「うそつき」はさらにひどくなった。外国人労働者の受け入れを拡大する「入管法改正」はその最たるものである。今後少子化から労働力の不足は明白である。「移民政策」で対処するほかない。それを小手先でごまかす。「政策」と「うそつき」の区別がいまだについていない。この調子では今後100年待ってもダメであろう。
▼コーヒーを一日5・6杯飲む。現役のころは10杯を超えた。もちろん砂糖を入れない。お酒は全くだめだ。朝の一杯目のコーヒーには、中に米ヌカとココナツオイルを少し入れる。私の唯一の健康法である。
江戸時代からコーヒーは薬の効用があると珍重された。カフェインは脳の働きを活性化する。血流向上・体脂肪の燃焼促進などに効果もある。タンニンにはコレステロール値や血圧上昇の抑制作用,抗菌作用などがあるとされている。
毎日新聞社会部に昭和23年6月に入社した仲間10人は2011年5月に亡くなった高橋久勝君を最後に全員あの世に行ってしまった。大のコーヒー党の私だけが生き残った。高橋君は左党らしく「冥途ゆく吾を肴に古酒を酌め」の辞世の句を残す。
「木枯らしや我可否党生き残る」悠々
コーヒーが発売されるようになったのは明治6年、横浜で発売された。コーヒーの木が日本で植えられたのは小笠原島(明治11年7月)。現在日本各地でコーヒーの木が栽培されているが出荷額の一番多いのは兵庫県で544億3500万円である。可否茶館が上野デオープーンするのが明治21年4月である。その後デパートの食堂でも用意され、コーヒーの値段は5銭であった(明治40年4月)。コーヒーを飲ませる喫茶店が流行したのは昭和10年頃。東京には喫茶店の総数が約一万5千、純喫茶と言われる店が3千、そこで働く女性が5万人いたという。昨今はこのような美味しいコーヒーを飲ませる店が少なくなった。万事が手軽なナインスタントコーヒーである。
「客観のコーヒー主観の新酒哉」寺田寅彦
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